パチスロとの決別のために

大阪府豊中市の主婦、辻森早苗さん(58)が自宅で殺害された事件で、三男で大阪大工学部4年の耕平容疑者(24)=殺人容疑で逮捕=が府警豊中署捜査本部の調べに「大学1年の時、友人に教えてもらったパチスロで大金をつかみ、止められなくなった」と供述していることが分かった。...

パチスロを止めた矢先にこの様な事件が。人事ではない。まあ母殺しなど絶対にしないが。

パチスロをはじめとしたギャンブルへの過度の傾斜は、近年では麻薬等と同じ「依存症」として認知されてきている。脳生理学からのアプローチはいまだアナロジーの域を出ていないようだし、今後もそのままだろう。それでも、「生活を破壊する、やめられない悪習慣」である以上、依存症のカテゴリに入れ、病気として捉えるのが正しいと思う。これは客観的分類の話だけではなく、依存者自身がそういう認識を持つべきだ。個人的には、タバコ<ギャンブル依存=薬物、という認識。以下のページが参考になる。


「パチンコ・パチスロ依存症を予防するためのホームページ」
http://www.pachinko-izon.net/top.html


主催がパチスロの業界団体である東京都遊戯業協同組合であることには、マッチポンプの欺瞞を感じはする。こういったページを主催・運営する傍ら、依存症患者の生活をより破綻させるような極悪スペックの新台の設置を許し、他方で遊べる台を古いという理由だけで撤去してきたのだから。まあ提供元がこういう動きに乗り出さなければならないこと自体が、問題の根深さを象徴してるとは言えるが。

このサイトでセルフチェックを試してみたが、当然のごとく依存症の傾向が確認できた。

このサイトに書かれていることで、個人的に重要だと思うのは「ギャンブル愛好家とギャンブル依存症は違う」ということ。

ギャンブル愛好家は自分のギャンブル行動をコントロールすることができます。例えば余暇を使ってギャンブルをするし、つぎ込むお金も生活を営んでいく上で出せる金額だけです。仕事中にギャンブルをしに行ったり、家賃や食費など、本来ギャンブルにつぎ込むお金でないお金をつぎ込んで生活を破綻に導くようなことはしません。風邪は熱が出たり咳がでたりするのが症状であり、自分の意志や根性でコントロールできないからこそ病気であるのと同じように、ギャンブル依存症はやってはいけない、やればいろんなデメリットがあるとわかっていても行動をコントロールできずギャンブルをしてしまう病気なのです。...


好きでやっているのなら単なる趣味嗜好であるが、それをコントロールできず生活崩壊の危機に陥っているなら、当人がどう言おうが「病気」である。依存症患者には必須の認識であると思う。


もう一つ、ギャンブル依存症が薬物依存症と同根である所以である、再犯?率の高さ。依存症になりやすいパーソナリティ類型があるようだ。僕自身、一度止めることに失敗しているだけに、注意したいところだが、どうやら「他に楽しみを持たない」ことが挙げられる。

普段は物静かで几帳面。仕事も真面目にこなし、素直で淡々としています。些細なことで傷ついたり、他者からの批判にも弱く、気を使いすぎて疲れてしまうことも多くなります。「人間関係はあまり得意ではなく積極的な交友はほとんどしない。しかし自尊心は高く、他人からの干渉を嫌い、独自の意味付けをして自分を正当化する傾向もある。心から楽しむことが苦手で、毎日を過ごしていくうちに虚しさだけが上積みされていく。」このような心の枯渇状態の時に、パチンコという火がついてしまえばたちまち燃え広がってしまいます。...


当てはまるところも、当てはまらないところもある。


○当てはまるところ

・普段は物静かで几帳面。仕事も真面目にこなし、素直で淡々としています。
・人間関係はあまり得意ではなく積極的な交友はほとんどしない。
 しかし自尊心は高く、他人からの干渉を嫌い、独自の意味付けをして自分を正当化する傾向もある。
中島敦山月記』の「珠と瓦」*1以来久々の、読んでいて転げまわりそうになった文章)


○当てはまらないところ

・他者からの批判にも弱く、気を使いすぎて疲れてしまうことも多くなります。
(基本的に良くも悪くも傍若無人である)


○両面

・心から楽しむことが苦手で、毎日を過ごしていくうちに虚しさだけが上積みされていく


このうち、最後が肝だと思う。他に楽しいことがあるかないか。僕は本の虫で、常習時にも読みたい本があればパチスロには行かなかった。加えて、本業のプログラミングへの意欲が噴火しているせいか、今は行きたい気にすらほとんどならない。


ではなぜ行くのか。一番楽しいことでもないのに。実際のところ、僕は以前一度止めたころには既に、パチスロに楽しさを感じなくなっていた。なぜ行くのか。そこにはたしかに、出ているときの麻薬的な「盛り上がる感覚」への希求はある。ただ、それだけではない。もう一つ重要な要素があると思う。それは「失った金への執着」だ。


パチスロのために借金をしてしまっていたり、そこまでいかなくても負けが込んでいたら、「何とか取り戻したい」という妄念に支配されてしまう。というより、「取り戻せるはずだ」という感覚。無くなった金を、あたかも預けているかのように錯覚する。ギャンブル依存症を他の依存症と分けるものはこれだ。薬物のような直接的な命の危険はないが、ある意味よりタチが悪い。人間が何より追い求めるものである『金』(至高のギャンブル漫画『カイジ』の「金は命より重い!」という至言を思い起こされたい)。これを「不当に奪われた」「増えるはずなのに減ってしまった」「取り返せるはずだ」という感覚。この感覚は、単なる「パチスロ愛好家(好き)」ならば持たないはず。


僕が再犯を犯したのも、ヒマだったからというのもあるが、「負け分を取り返したい。うまくやれば取り戻せるかもしれない」という誘惑から逃れられなかったからだ。そのときすでに、自分にとってパチスロが楽しいものではなくなっており、勝ち難いという認識を持っていたのにもかかわらず、だ。自分に限らず、スロ屋で楽しそうなのは朝から半ば集団レジャー感覚でノリ打ちして、勝って盛り上がっている若者たちばかりで、所謂「大人」は楽しくなさそうな顔が圧倒的に多かった。僕が止める前まで打っていたギャンブル性の高い機種、俗に「沖スロ」と呼ばれる『New島唄』『南国育ち』などがその代表で、特に『New島唄』は、Bigをある程度連荘させるまで止められない仕様(止めたら他人においしい所だけを持っていかれる。これを「ハイエナされる」という)のため、今にも死にそうな顔で打っている人間の多かったこと。半分泣きながら打っている奴もいた。冗談抜きで、阿片窟の退廃と通ずる悲惨さだった。阿片窟入ったことないが。


パチスロをやらない人間は、「ギャンブルなのになぜ『取り戻せるはず』と思うのだ」と疑問を持つだろう。今まで病気として捉えられていなかった「ギャンブル依存症」が、パチスロのギャンブル性の上昇と共に表面化した背景には、パチンコもそうだが特にパチスロが他のギャンブルと違い「勝てるギャンブル」だということがある。狙ったところでリールを止める技術があれば、最低設定でも負け難い台(『ジャグラーシリーズ』等)があるし、店の癖を分析して高設定をつかむ、稼動を記録しての宵越し狙い、機種の仕様を利用したハイエナ狙いなどの組み合わせで、高い確率で勝てる。実際、パチスロ専業で日々を凌いでいる人間も多く存在するようだ。


しかし当然のことながら、実際は勝つのはあくまで客のごく一部であり、トータルでは胴元である店が勝つようになっている。加えて、遊戯客の減少のために店の所謂「養分」(出典はこれまた『カイジ』)一人の負担額は増加する一方。こうした背景込みで考えると、「取り返さなければいけない」状態になっている時点で、それ以降も負ける客、「養分乙」と言われ続ける可能性が高い。万一取り返せたところで、そのままパチスロに時間を投資し続ける結果になる。過去に浪費し、未来に浪費されるであろう時間と金を考えて上記の妄念を捨てなければ、まず止められない。


今のところパチスロに行きたいと思うこともないし、おそらく自分は依存症でも軽度だろうと思う。前回も矢も盾もたまらず行きたい、といった強い揺り返しがあったわけではなく、つい「3000円だけ」と打つと1000円の投資で30000円出る、という悪魔の展開でそのままズルズル常習化、だった。


よって、防護策として「スロ屋に入らない、出来れば視界に入れない」を実行している。傍から見たら神経症的かもしれないが、病んだ精神状態であるわけでもないし、おそらくこの「入らない」が一番の防護策なのだ。「ギャンブル性の少ないハネ物パチや5号機に移行して徐々に」という手もよく聞くが、依存症患者が店に入ってしまえばいずれヤバいものを打つに決まっている。今のところむしろ行きたくないし。


もう一つ、積極的かつ即効性のある対策として極めて有効なのが、貯蓄を目的とすることだ。守銭奴のごとく、ひたすらに貯めこむことを目指すのだ。ついては家計簿をつけることが、貯蓄というよい方向に向かう一番の薬だと感じている。5万円を平気でスッていた人間が、1000円使うのも考えるようになるほどの効能である。マニアックに1円単位の合致を追い求める別種の快楽に目覚めもするが、害は無い。


己のアホさ加減が原因とはいえ、好きな機種もたくさんあった。それだけに、「このままオサラバするべきだし、オサラバしたい、少なくともスロ屋では二度と触りたくない」と本気で思っていることが悲しくもある。『スーパーブラックジャック』よ、『スーパービンゴ』よ、『ゴールドXR』よ、『メタルスラッグ』よ、『十字架』よ、『麻雀物語』よ、あらためて、さようなら。

*1:「己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった」(『中島敦全集1』(筑摩書房)p.34)