田中芳樹再読


先週久々に図書館に行ってから、田中芳樹熱が再燃。未読のものが多かった中国物を中心に読みまくる。その中から印象深かったものをいくつか。


・『奔流』

中国の史実より題材を採った歴史小説で、近年の氏にはこうした作品が多いようだ。南北朝時代の名将軍である陳慶之の若き頃に、悲恋説話の登場人物である祝英台を絡めている。


南朝の梁にて若くして軍略の天才として頭角を現し、北朝の魏(三国志のそれではない)の侵略に対する防衛戦に将軍として参加する直前の陳慶之は、賊に襲われている美しい若者を助ける。若者は祝英台と名乗り、親友であり妹の想い人でもある梁山伯という男を探しているのだという。陳慶之はなんとなく祝英台の面倒をみ、「にいさま」と呼ばれて打ち解けるうちに、この美しい年少の友人に恋心を抱いてしまう。出征前であることもあり、陳慶之は先輩将軍の家に祝英台を預けることで距離を置こうとするのだが、梁山伯を探したい祝英台に従軍を懇願されて断りきれない。


おまけに、祝英台はじつは女性だった。といっても、彼女を一時預かった先輩の将軍や、防衛戦の総司令官は一目でそれに気付いており、知らぬは陳慶之と、心優しい巨漢戦士の趙草だけ。そんな鈍チンの陳慶之も、梁山伯の所在(侵略軍に包囲されている城砦!)を伝えるやいなや意識を失った彼女を抱きとめた時、気付いてしまう。陳慶之にまでばれてしまっていることを知らぬまま、自分の従軍を重ねて願う彼女を、城砦への援軍に向かう陳慶之はやはり断りきれない。趙草の従卒とすることで、逆に趙草に守ってもらうことにする。戦闘の中でも、陳慶之は、男装して従軍する祝英台の無事を気にかける。他に想い人が居て、しかも自分には兄に対する弟のように接する祝英台なのに、話せばやはり自然と顔が笑ってしまうという、実らぬ初恋街道をまっすぐに突き進む・・・。


と、こういう話。辛く言えば、陳慶之に祝英台を絡める必然性は無く、二兎を追うものは・・・という批判はできる。ただ、そこを成らせてしまうのが田中芳樹の文才、というより、キャラクターの造形力だ。可憐で強気で、なのに儚げなヒロイン祝英台。対するは銀河英雄伝説の男ども。と言うと実も蓋も無いが、やはり読ませられてしまうのである。


特に、主人公の陳慶之。ぶっちゃけてしまえば、ヤン・ウェンリーだ。柔らかい物腰、武術はからっきし、朴念仁、上下問わず味方に好かれる、と四拍子揃っている。史実上でも無敗の用兵家とのこと。相手の弱点を突くのがその用兵の特色であることを強調しているが、あまりにヤンしすぎなので著者がキャラ立てを企てたのかと穿った見方をしてしまった。才を見出されたきっかけが面白い。皇太子が少年時代の陳慶之に囲碁の相手をさせたところ、ろくにルールを知らないのに、彼が悪手を打ったあとには必ずそこを突く必殺の手を打ってくる。そこで名人に「一つの対局でどこか一つ悪手を打て」と命じて対局させると、やはり悪手を正確に見切る。皇太子は陳慶之に目をかけ、まず武芸を習わせようとしたのだが、武術師範から「努力すれば上達すると励まして教えるのに、その生きた反例が居ては他の子への指導に障る」と突き返されてしまう。武芸の才能を全否定されるというこの悲しむべき状況に、「才能が無いのは悲しいです」とはきはき答えたという陳慶之少年はたしかに萌えであり、皇太子はそれではと彼に図書館の本を自由に読むことを許し、陳慶之が稀代の用兵家となる道しるべを作った。


そしてヒロイン祝英台。先にも書いたように、田中作品には意外と少ない儚げな萌えキャラである。意外と少ないというのは、田中作品の女性キャラを大別すると、大体「男勝り」、「悪女」、「少女(処女)」の三つに分かれる。
「男勝り」から見ていくと、一般に男装の麗人というと男勝りの武芸者が多く、田中作品にはまさに男装の麗人であるアリアーナ(『アップフェルラント物語』)や、他にも、アルフリードエステル(『アルスラーン戦記』)、カリン『銀河英雄伝説』)など、史実、フィクション問わずそうした女性が多く登場する。祝英台はというと、良くも悪くもそうした範例からは外れている。男装は想い人を追うためのやむなき処置であり、従軍しても実際には戦っていないようだ。強気な面を見せはするものの、自身が男装している故に女色に強く反発するくだりのみと言ってよい。
ならば悪女なのか(この場合の悪女というのは、悪い意味ではなく色気のある奔放な女性という意味で取ってほしい)。田中作品には、これまた色気のある悪女が多く登場する。が、祝英台は悪女でもない。そもそも梁山伯への恋心を最初は友誼と思い込もうとしたという生真面目な朴念仁である。結果的に陳慶之の純情を利用する形になっているのは無自覚の悪女と言えようが、単に「言い出しづらくなってしまった」のと、色事に疎く友人としての関係を望むが故。その上に男装では、悪女たりえようも無い。
残る一つの「少女(処女)」はどうか。フリーダ(『アップフェルラント物語』)や来夢(『夏の魔術』)、茉莉(『創竜伝』)など、田中ヒロインの多くがここに当てはまる。ヒロイン格だと第一の属性である「男勝り」を持っていてすら、同時にこちらの属性も持つ場合が多く、先に挙げたエステルやカリンがそうだ。この作品のヒロインである祝英台もまた、この属性に一番親和性を持ってはいる。しかし、他作品のそうした女性のほとんどは年少で、恋を知らないか淡いものにとどまり、女性性を強く見せない場合が多い。それに比して、想い人を必死で追っている祝英台はやはりどこか違う。
そもそも田中作品では数少ない悲恋物語の主人公であり、そのせいか著者がいまひとつ祝英台を描き切れていない恨みは残る。ただそれでも、お互い不器用な陳慶之と祝英台の姿は、愛と信頼という違う形ではあれ、互いに思いあってはいるのに、その不器用さゆえに、深い語らいが最後までありえなかったもどかしさが悲しく印象に残るという結果オーライ?なことになっている。


他にも、名前は忘れたがは先輩の将軍。ぶっちゃけポプラン。彼曰く、陳慶之が彼に祝英台をあずけたのは、「俺さえ最初に押さえておけば、他からは守ってくれるだろうと思ってやがる」。この銀英伝的な迂遠な信頼の表明が泣ける。で、「男に惹かれるはずの無い俺が惹かれたということは女だ」というすさまじい理論で祝英台に自身の正体を白状させた上で、陳慶之を利用する気なら許さぬと祝英台の本意を確認してみたり、陳慶之とのお付き合いを進めてみたりと泣ける気遣いを見せるあたりもポプラン。趙草は、もろパトリチェフな朴訥とした優しさが印象的だ。祝英台というおそらくは史実の人ではない存在をヒロインに据えたせいか、著者の歴史小説ではやはりフィクション色の強い『風よ万里を駆けよ』に次いで、キャラが立っている。


詳細を書くのは避けるが、残念ながら陳慶之の恋はアンハッピーエンドに終わる。アンハッピーエンドというより、陳慶之は最後まで、祝英台の悲恋物語では、脇役以上にはなれなかった。この点も、この作品がその完成度以上に、強い印象と悲しい読後感を残す一助となっていると思う。著者のフィクションでヒロインの悲劇が物語の中核におかれることはほとんど無い。近いものでも銀英伝ジェシカくらいで、彼女はヒロイン格ではない。当然ながら、史実に取材した作品にはアンハッピーエンドも多いのだが、それでもヒロインが悲劇的な最期を遂げる例は少なかった。『天山の舞姫』のゼノビアくらいだが、あの話はファンタジーの色彩が強く、個人的には美しい話とは思えど、あまり感情を動かされなかった。それに比して、祝英台の陳慶之への別れの言葉「あにうえ、ありがとう」は残酷ながらあまりにも悲しく、祝英台と梁山伯の葬儀を指示する陳慶之を見て、「なんて奴だ、泣きながら指図してやがる」とドライに毒づく先輩将軍もまた悲しく、その70日後、防衛戦を勝利で飾りながら「生きてさえいてくれたら、それでよかったのに」と70日ぶりの涙に暮れる陳慶之もこれまた悲しく。


・『夏の魔術』シリーズ


1巻『夏の魔術』を15年ほど前に読んだ時には、架空歴史作家という田中芳樹への認識を改めさせられた。拝蛇教、謎の彫像、銅版画といったホラーの道具立てはそれほどでもないのだが、その特徴の無さが茫洋とした異世界の雰囲気を表現していてよかった。屈折しているが古風な生真面目さが美点である大学生の耕平と、ボーイッシュで活発で、子供っぽく素直な12歳の来夢のコンビも、清涼な爽快感があった。


それはともかく、1巻は傑作、2巻も続編の必然性は薄いながら内容はよかったものの、だいぶ間隔を置いて出た3作目はいまいちで、さらに長い長いブランクの後、別出版社からの3冊復刻後に続いて出た完結編は、まさに完結させましたという以上の内容ではなかった記憶がある。おそらく、作者としては1巻で完結のつもりで描いたものが人気が出て、主人公コンビに愛着もあるので続きを書いたがいまいちだった、というパターンだろうか。耕平と来夢との関係も変質してしまったし。1巻では旅の途中でたまたま同伴者となった少女への保護者意識という感じの自然なもので、来夢にしてもせいぜい「目鼻立ちは繊細である」という程度の描写だったのが、2巻以降は「類まれな美少女」などの気色の悪い表現が増えてきて、悪漢に狙われる美少女とそのナイトという感じになってしまい、なじめなかった。この辺は、シリーズ化に際してのてこ入れとして著者がヒロインの魅力上昇を図ったが、かえって失敗したということだろうか。来夢がいい子なのだがいまひとつ心が見えにくい感があったせいもある。著者はたしか助けられるばかりのお姫様ヒロインが嫌いだと発言していたような気がするが、そのわりに来夢といいフリーダ(『アップフェルラント物語』)といい、主体的に行動する女性を描くのが下手な気がする。一緒に戦っていれば主体的だというのは違うだろう。心情描写が男に比べて圧倒的に少ないのだ。養護施設で育ち、年少の他者との関係において平等を守ってきたが故に、耕平に守ってもらうことを「自分のわがままで困らせている」と感じているという2巻での心情描写はぐっときたが、それ以外は全く印象に残っていない。


今回、1巻が傑作であることは再確認。3、4巻の読後感が変わればいいな、とは思う。ああ、4巻の表紙の来夢は激しくかわいいですよ。


・『薬師寺涼子』シリーズ


初読時は『スレイヤーズ』がやりたい、というか、リナ・インバースが描きたいんだなあと思った。絶対読んでるはずだし。パクリだどうだと無粋なことを言う気は毛頭無いが、「ドラまたリナ」→「ドラよけお涼」というのはあまりにもそのまますぎやしないか。ドラゴンとドラキュラだから違うといって済むものではない。語呂が悪い分だけセンスレスになってるし。


内容は、警視庁の美人暴虐キャリアとその下僕ノンキャリア刑事が、権力者やオカルトに立ち向かうもの。少々基準をずらしただけで、物語の骨格は勧善懲悪もの。近年の著者のフィクションシリーズでは唯一、そこそこの刊行ペースを保っており、内容も楽しめるものになっている。お涼もお由紀も魅力的だし。


あと、『奔流』で触れた田中ヒロインの類型分類で行くと、薬師寺涼子というキャラクターは3つ全ての(おそらく著者にとっての)いいとこ取りである。勇ましく、色気を振りまき、かつ処女性を持っている(その色気は基本的に造形美に属するものであり、実際には直接的な性的アプローチを取ることは皆無と言ってよく、加えて下僕刑事に迂遠な恋心を抱いている節があり、おまけにそれを隠している)。類型から外れているのではなく、3つの類型の全特徴を兼ね備えている。小早川奈津子(『創竜伝』)で自らの生真面目な女性キャラ造形を負の方向に突き破った作者が、長い時を経て正の方向への逸脱、遠慮なしの理想の造形に足を踏み出した感がある。その是非は置いて、著者としては書くのが楽しいだろう。おそらくは理想の女性なのであろうから。執筆ペースが優先されもするというものか。


<付記>


しかし、これまでも数知れぬ読者が発したであろう怨嗟の声を、自分も上げずに入られない。『銀河英雄伝説』完結時に「完結していない小説は屋根の無い家と同じ」だったかの名言を残した作家が、それから20年近くたって、多くの長期シリーズを抱えつつ、そのほとんどに完結へ向かう姿勢を見せない不良作家になってしまうとは・・・。今はよく知らないが、少なくともかつては押しも押されぬ超人気シリーズで、私も愛読していた『創竜伝』と『アルスラーン戦記』、この2シリーズだけは完結させてほしい。今回『アルスラーン戦記』も再読したのだが、面白いのだ、これが。悔しいが。『サザエさん』時空の所属作品なら致し方ないが、そうではないのだから。『創竜伝』は別の未完結時空である『幻魔大戦時空』に飲み込まれ済みという話もあるが。そもそも『ウルフガイ』へのオマージュとして描かれているようだし。


そういえば、この2シリーズの共通点として、オカルト要素が微妙な形で入っていることが挙げられる。前者はともかく、後者ではそれが足かせにしかなっていない。そして、連載が順調だった頃にはオカルト言語はまだ有効だったのだが、今ではその力は大きく減衰しており、否定的な形であれそこに依拠していたこの二作品の刊行ペースが遅れるようになったのも、この減衰が執筆を困難にしたためではないかと思っている。特に、超自然的存在の敵の打倒と並ぶシリーズ上の目標であった国家の再興が第一期で成っている『アルスラーン戦記』は、どうしても苦しい。第二期に入っても、第一期の焼き直しのような内政と戦闘が続くばかり。どうなったんだろうと思い、未読だった10巻(9巻から7年後の1999年に刊行!)を読んだら、こうした本格架空歴史小説の描写の中に、あまりにもナチュラルに、「千年の長い間人間を虐げていた邪神との闘い」が寓話でなく挿入されてしまっていた。どうにも無理矢理で、違和感があることこの上ない。エステルを出せ、とわがままの一つも言いたくなってしまう。どうやら11巻は刊行済み(10巻から6年後の去年!)のようだが、残念ながら図書館には無かった。最新刊が無いあたり、現在のこのシリーズの過去に対する位置が推測できて悲しい。それでも、往年の勢いは無いとはいえ人気が消え去ったわけではないようだし、著者は現在12巻を執筆中という情報もある。待つより他ないのだが・・・。