『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生』付記


犯行後の豊田は、マインドコントロール心理的抵抗を脱して、麻原を批判しているという。オウム真理教が、性欲などの身体的快感を通じたコントロールからよりダイレクトな薬物使用まで、様々な手段を使って信者の判断力を奪っていたことは有名だ。せめて出来ることをやろうとしているのだろうな、とは思う。

証人(麻原こと松本)は前回、地下鉄サリン事件は井上と村井に押し切られた、といいました。つまり(「全知全能で最終解脱した超能力者だ」と触れ込んでいた)彼には、(実際には)弟子を止める力がないわけです(中略)(今、教団に残っている人たち)、そんなグルについていっていいんでしょうか、しっかり現実を見てほしいと思います。これ以上過ちをくりかえさないでください。以上です。
(p.180-181)


しかし上記の発言を読むと、どうしても『じゃあ、もし麻原が無謬だったら従い続けてもよかったのか、麻原が「全知全能で最終解脱した超能力者」であったなら、ついていっても、サリンを撒いてもOKなのか』と思わずにはいられない。この豊田の発言は、今だ麻原に帰依し続ける教団員に向けて、麻原が無謬ではないことを証明することで、結局のところは犯罪集団であったオウムからの離脱を促すための方便ではあるのは分かっているが、やらかしちゃった後で、法廷で内ゲバしてるだけじゃん、という印象をぬぐえない。豊田はもとより助命を求めていないとのことで、皮肉にもそれゆえに、豊田の発言には言葉のゲームの匂い、自己満足の匂いを嗅ぎ取ってしまう。著者はこの発言を「麻原からの決別の瞬間」と持ち上げるが、それは幼稚に過ぎはしないか。当の豊田はおそらく、そんな高い評価を望んでいないような気がする。


やらかしちゃった後、と書いたが、「行為は気付きに先立つ」というテーゼが、この本の大きなテーマ、というより、超えるべき対象になっている。なぜ麻原の無謬性などという、傍から観たらあからさまにザルな誤謬に、サリンを撒いてしまう前に気付けなかったのか、再発を防ぐにはどうすればよいのか。著者は先の推理を提出すると共に、遺族を慮って口の重い豊田がもっと発言して、そのヒントを与えてくれることを望んでいる。僕は逆に、豊田からはこれ以上何も出てこないと思う。豊田もおそらくそれを分かっている、少なくとも、語ることのメリットより、遺族の心を傷つけるデメリットの方がはるかに大きいと判断しているから、多くを語らないのだろう。そもそも対策など分かりきっている。下半身に引きずられないよう適度に発散しとこう、とか、悪党がこっちをだまくらかそうと馬鹿なことを喋ってきたときには気付ける程度には賢くなっとけ、とか、寂しいからって偏った集団に所属するのは危険だ(当人の知的レベルがどうだろうが、周囲に合う形に補正される)とか、革命を唱える輩には眉唾で臨みましょうとか、そんな程度のことだ。それが難しいんだという話はあるが。


(20061204追記)

あと、オウムの中での個と集団との関連の説明のためにベルグソンの「創発」概念を持ち出してきているところも、カクッと来た。そもそもこの「創発」概念自体、何だかよく分からないのだが、たぶん「あれこそが創発なんです」的な用法の後付説明装置だろうと推測する。こうした集団心理をよく分からない概念で説明する手法は、ル・ボンやフロイトの昔への退行に思えてしまう。ストライキなどで暴れる「群集」やイメージとしての「原始人」を外部から眺めた知識人が、怯えを含んだイメージで説明したやりかただ。フロイトは集団内の紐帯を、死んだ父、あるいはその代理としての指導者への愛の共有に帰していたが、こうした説明は意思決定とそこから行動に至るプロセスを説明してくれはしない。