『神様のパズル』付記


あと、備忘録的に記しておくが、この作品の裏テーマとして、「それぞれの世界」がある。綿貫に稲の世話を委ねた老婆は、生業である農業すら「やることになっているからやってるだけ」と言い、結婚も子育ても同じだったと言い、他に楽しみも知らず、充足している。高く広い世界を知る穂瑞は老婆を「哀れな人」と辛辣にこきおろすが、自分はレベルの違う問題を混同し、翻弄され、ニヒリズムに陥る。そんな穂瑞に反論したくとも言葉を持たないまま、自身も卒業と就職という転機に翻弄されながら、稲の世話を続ける綿貫。文学的に反論するなら、以下の引用がよいかもしれない。

大小はただ外部から見て言えることであって、内部にはいれば大小はない。なぜなら、境界は外部に属し、外部から見た内部の大小は、この境界によって判断される。しかし、内部には境界が属しないから、いわば無限であり、無限には大小がない。
(森敦『意味の変容』(ちくま文庫)p.88)


外部からの哄笑に怯え続けた穂瑞もまた、最後に彼女なりの内部を見つけ、そこに安住の地を見出す。内部を『壺中の天』にまで高められるなら、それは幸せなことなのだろう。しかし、最後には遠ざからねばならないにしても、やはり哄笑は必要なのだという気もする。


しかし、『さよなら、サイレント・ネイビー』を読んでも思ったことだが、物理学徒が一足飛びにカタストロフ的、テロリズム的な手段に手を染めるというのは、僕には信じがたい。新興宗教にハマっているゼミ生も登場するこの本だが、大学生生活の初期などに、まだ未熟な学生がカルトの全能感溢れる教説なり疑似科学なりにハマるのは分からないでもない。科学を装ったり、逆に不可知論を踏み台にして疑似科学に跳躍したり、手段は色々なのだろう。が、少なくとも多少の教養を修めた学生なら、理屈そのもので流されることは無いように思うのだ。例外は、性欲や生活費、人間関係など別のファクターがあり、それらが論理より上位の価値基準を持っている場合か、薬物や脅迫といった強制要素があるかだろう。そして、サリン散布の決行まで行くと学問の話ではなく、指導者に従うか従わないかという話になっているから、そういう不毛な二者択一を迫られる時点で物理学徒もクソもない気がする。


意味の変容 (ちくま文庫)

意味の変容 (ちくま文庫)