泣きながら猛然と反論


http://d.hatena.ne.jp/albinoalbinism/20070102
にです。どうもです。
恥ずかしいことに引用の入れ子の書き方が分からないので、あとで修正します。
追記:なんかイカん書き方だが、とりあえず修正。
さらに追記:ご指摘いただいた入れ子引用のストレンジさ加減を修正。ありがとうございます。絶対こっちの順序が正しいな。

いや、あのねー、これは「分裂勘違い劇場」さんの記事の引用であって、オレが言ったことじゃないんだけど。更に、「分裂勘違い劇場」さんは「低能率労働者」の存在も示唆しているので「高能率労働しか仕事がない社会」なんてことは言っていない。そんな社会はあり得ないし、シミュレーションとして設定したとしても意味はない。

のというのがまず違う。なれれば、というのではなく、高能率労働しか仕事がない社会だろう。

しかし、このシナリオは全て、「労働者の過半数がそのような高能率労働者になれれば」という前提に依存している。


ああ、これは確かに勇み足でした。
でも、特に後半で筆が乗って書かれているところは「単純労働者がいなくなりました」、の状態だと思うんだが。
前半の部分は、揚げ足とられないよーに、のエクスキューズで。

「知識もツールも増えて」いたって、相変わらずマクロも組めない連中がいることは「分裂勘違い劇場」さんが述べている。そして、多くの人がマクロを習得したとき、それは「低能率」な作業となってしまうことが怖いのだ。あなた、読み書きできるでしょ? (あまり出来ないようだが。→後述)でもそれは数百年前なら一部の人間にしか出来ないことで、そいつらはその社会では付加価値の高い「高効率」の仕事をしていたのだ。

そうかな。少なくとも、200年前どころか、堺屋云々の20年前よりも、個人が生産性を上げるための知識もツールも増えていると思うが。


マクロが組めない人たちが組める(低能率・人力作業部分の自動化)ようになれば、少なくともその人が要求されている仕事の能率は上がります。とある高能率作業の上に要求される高能率作業って何でしょ。意思決定の要素が増える、とかいうのは、また別の話かと。あくまで、単純作業をなくしましょ、って話なんだから。
ましてや、読み書きの価値と同列にできるんでしょうか。読み書きはあくまで情報を用意するだけ。その適切な編集・利用の方法論を取得するのとは違う。それに、特定の技術はすぐ陳腐化するかもしれんけど、方法論は簡単には陳腐化しない。
あと、労働を圧縮してもそれをどんどん詰め込まれるリスクへの対処として、余暇の話が出てきていると思うんだが。

労働市場が完璧に機能しない限り「余り」は出てくる。そして輸出期の国における失業にも触れておいたんだが、それについては?
そもそも「労働者の過半数がそのような高能率労働者に」なっちゃったら、そいつらは既に「高能率労働者」なんかじゃないのよ。

なので、失業はあり得るとしても、「高能率労働者だから余る」ことはあり得ない。輸出することもできる、というだけの話なのでは。最高。

そんなことより、「労働者の過半数がそのような高能率労働者に」なっちゃったら「高能率労働者」自体が余ってくることのほうが心配だ。


先に書いたように失業の存在は否定しないし、輸出についてはそうですよね。
で、その下については、周囲との比較でどうであれ、その個人としての能率は上がるし、それは無駄ではない、と言いたい。
あと、先にも挙げた余暇の話。

焦れと言っているのだ。技術とか知識とかがどんどん単純労働者の食い扶持を奪っていくのだから。

ようは、単純労働者の側に立って(?)、いつの時代にも言われてきたことだから、焦ることないですよ、と言いたいのだろうか。


言いがかりでした申し訳ない。でも、焦れとはどこにも書いておられないかと。

「高効率労働者」になることを強いられているのに何が「希望のある話だと思」ったのか分からない。医者や弁護士や経営のプロとか、他にもいろいろあると思うけど、それら高付加価値を提供する人間が高い報酬を得る一方で、「低能率労働者」が薄給に甘んじていなければならない、その格差がますます広がっていくという話なのだぞ。

しかし、レジ打ちなんぞで安い給料で時間を売ることをよしとすることに比べたら、希望のある話だと思うのだが。


そうなの?社会格差拡大の抜本的対策として、単純・低能率労働者をなくしましょう、って話でしょう?
高能率労働者になりたいか、というのはたしかに個人の好悪が関わってくるが、あえてそこは切り捨てで。安い金で長い時間かけてやってる仕事を、初期の学習の手間と引き換えに省力化で早くすませて、余った時間は休みましょう、という話から初めて、そういう仕事自体を仕事じゃなくしましょう、ってのは、希望の蜜あふれる話だと思うのだが。
ただ、共産主義の匂いはするんですがね。動機付けが弱い。それでも、低能率労働=自動化・省力化可能な仕事と定義して、いっそのこと低能率労働自体を否定、というのは面白い。

そして、その「高能率労働者」だって数が増えれば競争に晒される。アメリカじゃ弁護士が余っていて、トラブルを見つけちゃ「私が弁護をするから裁判を起こしましょう」なんてやっているくらいだ。


晒されればよろしい。弁護士でやっていけなくなれば、転職すればよろしいのです。いや、おっしゃりたいことは分かっているつもりですよ。下がなくなれば、上が上と下に分離するだけだ、と。それがなぜに、単純・低能率労働者をなくしましょうという話の否定になるのか、分かりません。

しかし、「分裂勘違い劇場」さんは「単純労働の提供と享受を恥とする倫理が形成されている」なんて一言も言っていないし


僕は「分裂勘違い劇場」さんの記事の以下の記述をそう読みました。

そして、学校では、全ての子供は、徹底して高能率労働者、もしくは、創造的な仕事をする労働者に
なるように教育され、また、すべての単純労働者は、高能率労働者になるように、
徹底的にトレーニングされる。
こうして、社会全体が、単純労働を減らすように動いている。

文化、気風、時代の空気も変わってくる。
「長く働いたら負け」だとみなが思っている。
「長く働かせるのは悪趣味」だともみなが思っている。

文字通りに書いてないからって、書いてないことにはならぬ。
で、この引用部分は、

そして、このような状況下で如何にして「高効率労働者」を「過半数」にするかの方法が全く示されていないところが「分裂勘違い劇場」さんのエントリに対するオレの「批判」なのだ。


に対する「示されてるよね」という例にもなっていると思う。十分かどうかはさておき。
教育でどこまでやれるものだろうか、もっと有効な動機付けがいるよなあ。思案中。