叩かれる側に


生産性の件でエントリを書いたところ、分裂勘違い君劇場と山形氏のところを中心に日頃の20倍以上の大量アクセスが。『生産性の高いところから低いところへ』という流れが比喩的に体感できました。そして今はすっかり落ち着いた。他の更新コンテンツが夢日記ですから。ハア。


と思ったら、今度は自分が叩かれる側になっていた。


よくわかりません
池田氏チョムスキー叩き叩きについて。男はみんな珍走団
http://d.hatena.ne.jp/r-west/20070224#1172334169

池田氏は、単に「いつでもバリバリ、アクセルベタ踏み!!ブレーキ?何それw」系、というだけだと思う。坊主憎けりゃ袈裟まで、と言うか。で、その愚にこの人自身が陥っている。
(引用者により中略)
しかし、池田氏も批判者も、一向にブレーキは踏まないし、アクセルも緩めない。当然正しい道に曲がることは出来ない。そして空しい議論が空回りするだけ。 まあ、爆走は快感だからね。自分も男だから、それは判らなくもない。みんな珍走を嗤えないね。


私も珍走団だそうで。ようは「あなたもかみ合わない議論をしているでしょう」と。
私が池田氏のコメントを批判的に取り上げた3つの引用部のうち、1つ目と3つ目を問題にされています。
入れ子にすると煩雑になるので、何を引用してどう批判しているかは前回のエントリを見ていただきたいです。ご了承ください。
引用内容を乱暴に要約してしまえば、1と2は以下のような内容です。

1)生成文法のアプローチは計算機科学として役に立たない
2)言語学も経済学も疑似科学である


3つ目に付いては軽々しく要約したくない、というか出来ない内容なので、やめておきます。
私への批判の骨子は、1つ目はたしかに誤りだがたいしたことではないし、3つ目はまっとうでしょ。1つ目のダメさに乗ってまっとうな3つ目まで批判してどうするの、ということだと理解しました。


まず、1つ目の引用部、生成文法が計算機科学として役に立たない云々は

(引用者により前略) これは完全な誤り。言い訳は不可能。
しかし、これのどこに誤りがあるかと言えば、チョムスキーが役立つor役立たないではなく、「言語」という言葉が指すモノ。
計算機科学方面では、言語と言えばプログラミング言語。正確には、言語とは、「自然言語プログラミング言語」。前者は計算機科学方面でも、自然言語屋さんとその界隈しか関わらないけど、後者はどの分野でも少なくとも実装の面で必ず直接的間接的にお世話になる。で、チョムスキーは、自然言語処理技術というよりプログラミング言語(データ記述なども含む)方面の基礎理論として、情報系の教育では必ず行われる。
これを、門外漢の池田氏は、計算機科学方面でも言語=自然言語という思い込みで語ったため、失言となってしまっただけ。池田氏の発言の誤りに気付く人は、落ち着けばその位直ぐに判るはず。


というように誤りだが、それをネタに、池田氏の経済学、言語学の評価(3つ目の引用部)を強く批判できるのか、これ自体はまっとうな文じゃないか、と。

これ(引用者注:3つ目の引用部)を最低の逃げとしてめちゃくちゃに叩いてる。なんで? ここで言ってること自体は別に至極まっとうじゃないの*1。 そうじゃなくて、この議論の問題は、ここでもまた議論が噛み合っていない事。


私の答えは、『まっとうじゃないと思う』です。むしろ、1つめは枕程度に取り上げただけで、どうでもいいのです。2つ目と3つ目が害が大きいと思っています。逆に、どうまっとうなのかお聞きしたいくらいだ。


2つ目に付いては特に触れられていないので置きます。3つ目。
この文章は、「近似的」といい、「複雑性」といい、当該分野の現状についてよく分かっていないしその気もない人が、勝手にえらそうに総括逃げするための常套句でしょう。近似なのも複雑なのもその通りでしょうが、まちがってなければよいというわけではないと思います。この手の文章は、書き手のエゴイズムへの奉仕と、鵜呑みにしがちな人に鵜呑みにさせる力以外は、よいことはひとつもない。役に立たないことをしています、と言うだけ言っておいて、対策である『複雑性そのものにちゃんと取り組む』というのが具体的に何のことなのかさっぱり分からないし。経済学者の側からすると、どうすりゃいいの、という感じになるでしょう。こういうのを言い逃げという。


この手の文章は、各論と総論の間に飛躍があります。だから、各論には無難なことしか書いておらず、間違っていないように見える場合は非常に批判しにくい。池田氏の文章は多くがこのパターンのように思えます。非常に論争的な文章です。読み手としては得るものが少ない。


で、私がこの文章を見て思うのは、『本当に、経済学=新古典派で、一見エレガントな理論に自足しているの?』です。そういう批判ですよね、これ。どうまっとうなのか。ドン・キホーテ的に、いもしない敵を批判するポーズをとって自己正当化しているだけじゃないのか、と。


これについて、池田氏の文章と比較すると様々な意味で示唆的で、深く感銘を受けた文を紹介させていただきます。


経済学者は進化理論家から何を学べるだろうか。(ポール・クルーグマン
http://cruel.org/krugman/evolutej.html


訳者は山形氏で、氏のサイトで公開されています。
様々な意味でというのは、以下のようなものがあります。もっとあるかも。


・他分野への言及の際、その現状への誤解に基づいてやりがちな失敗(当該分野では評価の低い著作の引用等)への警鐘
新古典派経済学の概念(最大化と均衡)の理論的フィクションとしての重要性
・複雑な事象を捉えるための単純なモデルの重要性
・数学的モデルの重要性
新古典派経済学とは何か
・他者を罵殺する文章にも程度の差がある(これは追記)


少なくとも、

 経済学では「新古典派」という用語をよく使います。これは相手をほめるのにもけなすのにも使います。個人的には、わたし自身は誇り高き新古典派だと思っています。だからといって、わたしが完全競争を一から十まで信じているってことじゃないのは当然です。この世を理解しようというとき、できるだけ個人が最大化してその個人のやりとりが何か均衡概念でまとめられるようなモデルを使うのが好きだ、という意味です。この種のモデルが好きなのは、それが文字通りの真実だと思っているからではなくて、思考をまとめるにあたって、最大化と均衡の力を思い知っているからです――そしてこうした組織装置なしに経済学をやろうとする相手が、まったくのアホダラ経を量産しているのに、自分では何やら正統教義のくびきから逃れているのだと思い込む傾向があるのも見ているんです。


この一文だけでも、池田氏の経済学批判が当たらないことが分かります。で、私が怪しんでいるのは、池田氏の言う『複雑性そのものにちゃんと取り組む』というのを具体的に書くと、クルーグマンの言うアホダラ経になるのではと言うことです。具体的に書いていませんから、なんとも言いようがないですが。