アイロニカルにシニカルなニヒリスティック


前回イロニーイロニーと書いていてふと思ったのだが、イロニーというのは今の一般的な表記で言うとおそらくアイロニーのことだ。アイロニーというと「皮肉」か。辞書的な意味でのアイロニーは、論敵の土俵に乗った上でその弱点を指すというテクニックらしい。ただ現在の用法は、主体的に行使する皮肉というより、「アイロニカルな状況」というように、二律背反的な状況を第三者的立場から俯瞰して嘆息する用法が主だと思う。これは何故か、日本浪漫派のいわゆるイロニーと重なっている。


似たような言葉に、シニカルとニヒルがある。この二つも皮肉屋の形容詞だが、さらに見分けがつきがたいような気がする。シニカルが斜めからものを見るような、攻撃的なニュアンスで、ニヒルはより距離感のある、冷笑的なニュアンスか。

この二つも、どうやら政治の季節には、おのおの独自の役割をになっていたようだ。語源的には逆で、シニカルは古代ギリシャの学派から来ているそうで、その学派がノンポリ(政治に対する無関心)だったので、そのままニヒルとの区別になっていた様子。

対するニヒルは、語源がラテン語の「虚無」で、哲学の分野で「真理に至る道はない」という絶対的懐疑論として出てきたのが、政治用語に転用されるに当たって、懐疑論が体制への反抗と破壊性のよって来るところと目されたのか、破壊的・暴力的な革命論を政治的ニヒリズムと名指すようになったと。


こうした区別も、政治性が薄れた現在ではあやふやになっている。というより、今でも人気のシニカルに比べて、ニヒルは余り使われなくなっているようだ。アイロニカルなんて、絶滅寸前だ。


そもそも、アイロニカルは二律背反的な状況に対する嘆息だと先に書いたが、日本浪漫派のイロニーも、もはやたどり着けない「古の日本」と悲惨な「軍国の日本」の懸隔を自覚し、その背反の中で生きろというメッセージだったという。しかし、やはり、自覚してどうするという気はしてしまう。保田の場合は、理想に達する道はなく、矛盾に気づくことで理想を仰ぎ見るしかない、そんな場所で生き、死ねということだったんだろうが。

こうまとめると痛い。結局のところ、イロニーもシニカルもニヒルも、基盤にあるのは不可知論であり懐疑論だ。保田はその諦念の上に立って絶望を開陳しており、しかもそれこそが希望であるという。悲惨だが、抗いがたい美しさも感じる。

そういえば、キルケゴールのキリスト論論も、たどり着けない神の面前に立ち続ける苦痛と悦びというもので、似たような論法ではあったが、あちらはまだ幸せそうだった。この差は諦念の処理の仕方にあるような気がする。部分的にしか読んでないのだが、保田の文章は確かに美しいのだが、あまりに諦念丸出しのため、空虚なのだ。本人もそれを自覚しており、当時を生きる者の必然だということで、直そうとは露ほども思わなかったという。そしてその空虚さ、諦念こそが若者の心を捉え、左右問わず危険視されもした理由であるらしい。

謎だ。