ジェルジ・ルカーチ『エッセイの本質と形式について』を読む


*この文章は読解の変化、ならびに誤字・脱字の発見にしたがって適宜改竄します。


ルカーチの初期著作『魂と形式』の第一章?『ルカーチ著作集』の1巻に収録。友人への手紙の形式をとっている。現在の評価は哲学者にしてマルクス主義者だが、ここでのルカーチの立場はエッセイスト、文芸批評家だ。何でこんなものを読むのかというと、自分はなぜこの年になって物語だのアニメだのを観たがるのだろう、という自問からなのだが。
第7章の『憧憬と形式』というかっちょいいタイトルに惹かれて読んでみたら、グニャグニャとした思索が開陳されていて読むのはしんどそうだがいろいろ示唆的なことが書いてある様子なので。思想史的には『歴史と階級意識』の著者として有名なのだろうが、そちらは読んでいないので、正直こんな浮世離れした繊細な文芸批評を書いていた人が、そうした方向で名を残した経緯と内容も気になるが、それはまた別の話だ。


『エッセイの本質と形式について』は、後に続くエッセイ群の序論だ。とりあえず、目に留まった論点を抜き出しておく。

1.ニーチェたちがヴィンケルマンのギリシア像を駆逐できなかったように、新しい批評が登場しても古い批評が残ることがある。
2.批評は芸術の一部で、学問ではない。学問は事実とその間の関係を扱うが、芸術が扱うのは魂と形式だ。
3.批評は文学・芸術だけでなく生そのものを対象にできる。プラトンソクラテスキルケゴールの著作をみよ
4.物語の主人公は分岐点や戦いに立つが、それは批評における問いと答えではなく、単なる分岐点や戦い、単なる事物(出来事?)だ
5.にもかかわらず、文学は「人生の批評」(これはマシュー・アーノルドなる人物の言の引用らしい)だ
6.批評はさまざまな形式を区別する根本原理、世界観だ。文学のさまざまな形式を太陽光線にたとえれば、批評は紫外線に当たる  (不可視の土台だと言いたい?)
7.世界観としての批評には、学問や哲学のような解決につながる「問いと答え」はない。問いに対してあるのは象徴であり運命であり悲劇だ
8.書かれたものは、運命の関連の象徴化によって世界を表出する。形式を規定するのは運命の問題だ
 (具体的な筋書きを抜きにした文学の形式論はありえないと言いたい?)
9.批評には運命が存在しない
10.批評家は事物について真実を述べねばならぬ
11.ソクラテスの最後が示唆するように、批評の結末は恣意的、アイロニカルだ


4と5の関係がよくわからん。物語はお説教や自説の開陳のためにあるのではない、という話として読むことはできるが。
今のところ、どうもよくわからない。それでも、以下の下りは批評する側の望みというかうまみをうまく表しているように思える。

文学は運命からその輪郭、その形式を受け取る。形式はそこではいつも運命としてしか現れない。エッセイストの著作においては形式が運命となる、運命を創造する原理となる。
(中略)
批評家とは、形式のうちに運命を眺め、形式が間接的かつ無意識に己のうちに秘めている魂の内実をこのうえなく強烈な体験として味わう者の謂なのだ
(『ルカーチ著作集』p.20〜21)


その分手前勝手に諸文学を使って勝手なことをほざく可能性が上がるわけだが、真実を述べねばならぬということでがんばって自制しつつ、答えは象徴や運命、悲劇なので・・・どうすればいいのだろう。


最後近くでは、悲しいかな読んだことないショーペンハウアー『意思と表象としての世界』の付説を引き合いに出して、諸文学を裁断しその上に君臨するかのように思える批評家の、実はつつましいあり方を述べる。

エッセイストとは、かれ自身の(あるいは他人の)『意思と表象としての世界』を待ち受けながら、『付説』を書くショーペンハウアーだ。かれは、やがて来るべき者について荒野で予言するために出立する洗礼者、その靴の紐を解くにも足らぬ人について予言するバプティスマのヨハネなのだ。もしその人が来なかったら−そのときかれは預言者の資格を失いはしないか?そしてもしその人が来たら−その出現によってかれはなくもがなの存在となりおおせはしないか?自己を正当化しようとするこの試みのために、かれは完全に矛盾をはらんだ問題性のうちに投げ入れられはしなかったか?かれは先駆者の純粋なタイプなので
(『ルカーチ著作集』p.35〜36)


なりたくて預言者になったのなら貧乏くじを引こうがどこに投げ込まれようが仕方ないと思うが。このままでは批評家は、運命、すなわち一回性を持ちえぬ上に、体系としても偉大なる後続の先駆に過ぎない貧弱な著作を手にするだけの悲惨な存在だ。しかし続きがある。

真のあこがれはすべて、素材として与えられたさまざまな事実や体験のうちに、手をこまねいたままうずくまっている人々を、苦もなく打ち負かしてしまう。この勝敗を決定付ける因子は、あこがれがそこに存在するということだけで十分なのだ。なぜならあこがれは、一見確実かつ直接的に見える一切の仮面をはぎ、そこに潜むあこがれの卑小さ、そこにつけられた決着の安直さをあばきだし、規範と秩序を指し示すのだから。
(『ルカーチ著作集』p.36)


オウ。この『あこがれ』はキー概念っぽい。この『あこがれ』の来し方が知りたいのだ。あこがれがあこがれの卑小さをあばきだすというのは分かりにくいが、前者が批評家のあこがれ、後者が個別の作品にただ耽溺する人々のあこがれとしておこうか、そうするとやたら傲慢だが。それでも、

偉大な美学が到来したその日には、エッセイのどれほど純粋な成就といえども、どれほど力強い達成といえども、活力を失わねばならない。
(『ルカーチ著作集』p.36)


らしい。そうなのか。ひどいな。その上、

価値と形式を求め、規律と秩序を求めるこのあこがれには、到達すべき終着点、あこがれそのものを止揚し僭越な類語反復と化してしまう終着点があるばかりではない。真の終着点とはすべて字義通りの終点、つまりある道の行き着く果てなのだ。
(『ルカーチ著作集』p.37)


どこのファシストだといいたくなるようなイヤなあこがれの定義と、今で言うなら相対主義的な無意味、不毛を暗示する比喩の登場。いよいよ救いがない。僭越な類語反復というのはさっきのあこがれがあこがれをのことか。ただよく考えてみると、自分が抱くなにやらもやもやとしたものはやはりこういうある種堅苦しい美しさを持つものであってほしいのも事実だ。
そしてここから批評家の逆襲が始まる。この「行き着く果て」が単なる相対主義的な無意味と孤独を意味するものではなく、むしろ『あこがれ』の一回性の取得であることが明かされる。

だがこのあこがれは、成就をいまやおそしと待ち受けるばかりのものではなく、それ自身の価値と実在性を備えた魂の事実なのだ。生の全体に対する根源的な態度決定、究極の、もはや止揚されることもありえないさまざまな体験の可能性のカテゴリーなのだ。それゆえにこのあこがれは、自らを止揚する成就を必要とするばかりではなく、形成をも必要とする。形作られ、もはや分かたれることのないもっとも固有の実態を得ることによって、あこがれは永遠の価値へと救済され解放されるのだ。この形成をもたらすのがエッセイだ。
(『ルカーチ著作集』p.37)


こうして批評家の原動力である『あこがれ』が、許されていなかった一回性を取得する。さらに永遠性も手にするのが次のくだり。

体系の前にある付説は、おのれのうちからそれ自身のための諸前提を作りだし、体系への憧れから全世界を作りだす。
(中略)
付説は常に体系の前に立つことになる。たとえ体系がすでに実現されようと、それらの付説のどれとして応用ではありえず、常に新たに創造、現実の体験のうちに生を獲得する営みなのだ。
それは一度存在したものを、ほかならぬその一回性において永遠へと高めようとするのだ。エッセイとはたしかに裁きだが、その本質をなし価値を決定するものは(体系とは異なって)判決ではなく審理の経過なのだ。
(『ルカーチ著作集』p.37〜38)


すげえ救いだ。ニーチェ永劫回帰の別バージョンに過ぎないような気もするが。いや、そもそもこういうこと(批評者の自己救済)を知りたかったんじゃない気がするが。どうやらキー概念らしい『あこがれ』の内容は後続の諸エッセイにあるのだろうか。とりあえずこの序文の結論らしきものを覚書として引用。

エッセイとは芸術の一ジャンルである。独自の完結した生の、余すところない独自の形成である、と。
(中略)
エッセイは生に対して芸術作品とひとしい身ぶりを見せる。しかし身ぶりだけ、この態度決定の絶対性だけはひとしいかもしれないが、そのほか両者には何の類縁もない
(『ルカーチ著作集』p.38)


分からねえ。


魂と形式 (ルカーチ著作集 1)

魂と形式 (ルカーチ著作集 1)